【戦記】色々な絵を描いてみた2-55【サリエ近郊の戦い 】

投稿者:Material 86479 3 mini qhqh123 投稿日:2018/05/06 13:26

サリエ近郊の戦い

サリエ近郊の戦い(サリエきんこうのたたかい、Battle of Salihe)は、南瞑暦1013年に南部サラヴィア港町サリエ北東の野においてエクミス王国とサラヴィア系テプト人の間で行われた戦い。サロ半島の戦いとも。

エクミス王ヨルド2世の戦死を始めとして、この戦いはエクミス・サラヴィア間の関係に大きな影響をもたらした。

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背景

6世紀後半から7世紀にかけて、西岸に権勢を誇ったユンメリス王国が解体されて以降、大陸300年に渡る動乱状態にあった(王冠なき時代)。そんな中、エクミス王ヨルド2世は、ヨルド1世堅牢公の作り上げた騎士団と国力を継承し、歴史的湾奥地域と呼ばれる一帯の統一事業を推し進めていた。

一方で、1005年から1010年にかけて起きた一連の戦争南エクミス戦争)において、ヨルド2世の甥であるロルファ公とその息子たちが輝かしい功績を掲げたことにより、ヨルド2世の王宮での影響力は衰えを見せていた。ヨルド2世とロルファ公は王位継承の際に争ったことがあり、彼はロルファ派貴族の圧力によって退位を要求されることを恐れていた。

これらの事情から、ヨルド2世は軍事的勝利を必要としていた。その中で王国北西のサラヴィアが目標に選ばれたのは、ヨルド2世は南東のカラト人英語版を相手に何度も追い詰められた過去があるため、それらの方面と比較するとサラヴィアに住むテプト族の方が与し易い相手であると判断したためだと考えられる。

1013年4月、ヨルド2世は軍事行動を決断。サラヴィアの積み出し港として重要都市であるサリエの街を目標に定め、騎士と傭兵を募った。

また、長らく続くエクミス王国の経略により、テプト族(サラヴィア系テプト人)は常にその軍事的脅威に晒されていた。軍隊を各村落の有力者および都市の中間層に拠るテプト族は、その軍制度からして常備軍を持たず、国境のエクミス軍を警戒するために少なからぬ負担を強いられていた[2]。

長らく姿を隠していたテプト族主力軍が姿を表した背景には、消極的防衛による判定勝ちではない決定的な勝利を求める意図があったと考えられる。

戦いまでの経緯

1013年4月11日、ヨルド2世が王領に陣触れを出す。彼は王領の西で傭兵を募い、歩兵800を雇用した[3]。

4月20日、ヨルド2世とその軍1500が国境に移動する。彼は発言権を強化させたくないため、前線指揮官として名を馳せた甥のロルファ公を王都の守りとして据え置き、第一姫フォエスティアに歩兵600の指揮を任じた。傭兵隊は、ヨルド2世子飼いのグレタラ子爵英語版が指揮することとなった。

5月1日、ヨルド2世と娘フォエスティア、そしてグレタラは、攻城兵器を含む総勢2300の軍を率いて国境の砦を出立。サラヴィアの領域内に侵入を開始する。この際、ヨルド2世はテプト族のことを森の中に住む蛮族と侮っており[独自研究?]、敵地を進むにも関わらず輜重隊列の守りを緩めていた。

5月2日、グレタラ率いる軍がザルッカの町を略奪し糧食を確保した(ザルッカの戦い(1013年)英語版)。

5月6日の昼前、沿岸部を進むエクミス軍先鋒は攻撃対象であるサリエの街を発見した。夕刻前には斥候が、クルシャの村へと集合中のテプト軍を捕捉する。敵の集結が完了する前に強襲することも考えられたが、昼前から小雨が降って見通しがよくないことと、いたずらに軍を急がせるべきではないというフォエスティアの献策によって決戦は翌日に見送られた。サリエの街に向けて降伏を迫る使者が送られたが、門前で追い払われた。

5月7日、日の出過ぎ、朝食を済ませたエクミス軍は、サリエ近郊の開けた平地に投石機を並べた。そのまま市街を攻撃するそぶりを見せると、それを察知したテプト族の主力軍は陣を出て街道上を南下、エクミス軍がこれを迎撃する形でサリエ近郊の戦いは幕を開けた。前日とは打って変わってよく晴れた天気だったとされる。


エクミス軍の陣容

エクミス軍は全軍を3つに分ける形で布陣した。
グレタラ率いる左翼450は多くの傭兵と僅かな騎士からなり、全体の中でも突出する形で配備されていた。
エクミス軍中央1100は、前衛は徴募兵と傭兵からなり、背後からヨルド王とその直属騎士が睨みを効かせていた。
練度の高い歩兵である下馬騎士を中心とした右翼550は、ヨルド2世の命によりフォエスティアが指揮を執った。
また、中央軍の背後には夜営陣地と攻城兵器群が配置されている。


テプト軍の陣容

テプト軍は動員の遅れ、特に西部サラヴィア兵の遅れから戦いの主導権を握ることができず、敵が待ち構えている戦場に急行する形になった。だが、直接戦闘が始まる前に僅かな休息をとり、縦隊から展開して、戦闘前には厚めの横隊を敷くことに成功していた。兵力は歩兵1500。また、戦場の東に位置するタハと呼ばれるに軽装の先遣隊を派遣し、ここからエクミス王国軍の動向を観測していた。
比較的士気は高かったが、特に練度と武装の面でエクミス王国軍に劣っていた。しかし、夜闇にまぎれ、分散させた真の主力500を戦場東の森に配置し、エクミス斥候の目から隠し切ることに成功していた。


戦いの経緯


サリエ近郊の戦いにおける両軍の布陣、および戦況図(『王戦姫』第1~2巻より訳者が作成)
戦況図1/9


戦いに先立ち、ヨルド2世は、囮として特に装備の貧しい傭兵団を前線に配置し、戦いを前にしてあえてもたつくような動きをさせた[4]。タハの丘の上からこれを見たテプト軍先遣隊は、充分な勝機ありと判断し前進を指示。戦いが始まった。

ヨルド2世はフォエスティアに命じ、戦場東のタハの丘を攻撃させた。フォエスティアは右手から回り込むように攻撃を開始した。これはタハの丘が東から南東にかけてなだらかな地勢であると同時に、丘がサリエ族主力軍と自軍との間に立ちふさがり、行動を読みづらくなることを期待してであった。

ヨルド2世は左翼の傭兵部隊を突出させていたため、直接戦闘はここから始まった。ヨルド2世直卒の騎士団は後方に控えながら、戦意の低い傭兵が逃亡することを抑えていた。左翼のグレタラ率いる騎士団も同様のことをした。

戦況図2/9


エクミス傭兵とテプト軍の戦闘が激しさを増す頃、フォエスティア率いるエクミス軍右翼は、タハの丘に陣取るテプト軍先遣隊を攻略した。これにより、エクミス軍が戦場を一望することとなった。

エクミス軍左翼の傭兵隊は、もともと弱兵が当てられていたこともあって早くも浮足立ち始めていたが、これはヨルド2世の想定の内だった。テプト軍はこの好機を活かそうとより盛んに攻撃をしかけたが、ヨルド2世の主力軍そのものは、戦闘開始から一歩も動くこともなく健在であった。

テプト軍の配置と数を観測したのち、フォエスティアはクロスボウ兵を西に向けて展開させた。クロスボウ兵はテプト軍の側面に向けて射撃を開始する。左翼側から射撃を受けたテプト軍は、もともと左翼側で攻撃が薄かったこともあって左翼の一部を東へと差し向けた。

戦況図3/9


このテプト軍が急斜面を登ろうとするのを見たフォエスティア姫は、弓隊を下げるとともに、エクミス軍下馬騎士に突撃を命じた。これを見たテプト軍は、左翼の過半を方向転換し、突撃してくるエクミス軍下馬騎士を包むこむように展開した。

テプト軍左翼の機動を見たヨルド2世は、温存していた手持ちの騎士団に突撃を命じた。目標はひとつ、テプト軍横隊にできた間隙だった。東に戦力を割いていた隊列は瞬く間に突破されることとなった。

好機を確信したフォエスティアは剣を抜いて号令をかけた[5]。逃走するだろう敵の背後へ展開するため、自らの護衛を率いてタハの丘を北西へと駆け下った。

戦況図4/9


テプト軍の伏兵500がタハの丘の上に姿を表したのは、まさにその瞬間だったといわれている[誰によって?]。

テプト軍本隊の監視、中央軍への連絡という任務は完璧に果たしていたフォエスティアの右翼だったが、自らの背後への警戒を怠っていた。

森から湧き出るように現れたテプト軍伏兵によって、まず近接戦闘能力をもたない右翼軍弓兵が、副武装であるエクミス式短剣に持ち構える暇もなく蹴散らされた。敵兵の接近に備えて並べてあった木杭は、すべてが西側に向いており、方向転換の暇はなかった。こうして、タハの丘の上をふたたびテプト軍が制した。

戦況図5/9


もっともひどい混乱に襲われたのは、指揮官自ら突撃中の右翼軍である。退くべきか、どちらに退くべきか、あるいはその場で耐えるべきか。指揮官であるフォエスティアを救出するべきか、または中央軍の指示を仰ぐべきなのか。各級指揮官と兵たちとの連絡はまったく寸断され、個々が独自の判断で動くことしかできなくなっていた。退路を断たれ、戦っている最中に背中を脅かされた兵たちは否応なく浮足立ち、動揺は広がっていった。

ここでフォエスティアは反転を命じた。そしてタハの丘を攻略し、ふたたび統制を取り戻そうとしたが、丘の上に陣取るテプト軍は500。地の利と数の利は敵方にあり、勝機はなかった。

戦況図6/9


足並みが揃わない中で四方からの攻撃を受け、エクミス軍右翼の下馬騎士隊は崩壊した。手持ち無沙汰になったテプト軍伏兵はさらなる戦果を求めてまだ戦っている味方の援護に入った。

右翼軍崩壊との報は、まずテプト軍に、そして元から士気が低く徐々に後退を始めていた傭兵主体の左翼軍へと迅速に伝わった。左翼軍の崩壊を抑えるためのエクミス騎士団は半ばが出払っており、短時間で総崩れに至った。抑えようとする努力虚しく、エクミス軍左翼指揮官グレタラは混乱の中で敗死した。

戦況図7/9


騎兵戦力による敵中突破を成功させたヨルド2世だったが、エクミス軍左翼の傭兵、および中央の徴募歩兵はすでに潰走に至り、それを留める手段はなかった。ヨルド2世は確実な突破を図るため前線近くで指揮を執っており、その声は、素早く戦場を離脱する兵士たちには届かなかった。

勢いづいたテプト軍右翼の半数は、逃走するエクミス軍へ追撃を続けた。一方で残る半数は、ヨルド2世含むエクミス軍中央の後方がまったく無防備であることに気がつき、進路を東に転じた。この時点で、残るエクミス軍中央の歩兵200も逃走を始めていたと考えられる。これを追ってテプト軍の一部が戦場を離脱した。

戦況図8/9


形勢は完全にテプト軍優勢となっており、もはやエクミス軍に考えられる手段は退却しかなかった。エクミス軍が左右にこじ開けたテプト軍の隊列は、援軍を得て息を吹き返していた。三方から圧力を受けたことにより、エクミス騎士たちの勢いは削がれていた。この場での壊滅も考えられた。

しかし、テプト軍も疲弊していたこと、一部が追撃のため戦場を離脱していたこと、練度の低さと強力なな指揮官の不在などから包囲は完全なものではなく、エクミス軍中央にとっては希望が残されていた。しかしながら、一方でフォエスティア率いるエクミス軍右翼は退路は存在しなかった。テプト軍の完全崩壊を予測し、より敵の奥深くに移動していたためである。

エクミス騎士たちはかろうじて包囲環のほころびから南に抜け出し、街道をひた走った。これにより、エクミス王国国境まで半数以上の騎士は生き延びることができたが、これらの脱出を果たした騎士たちの中に、前線で指揮を執っていたヨルド2世の姿はなかった。

包囲が崩れ、残されたテプト軍兵士たちは、最後に戦場に残っているフォエスティア率いる護衛部隊に目を向けた。街道の南北は遮断され、まもなく逃げ場はなくなった。

時は日暮れに近く、既に急を要する戦況とはいえなくなっていた。防御のための円陣を組み、決死の抵抗を試みるエクミス軍右翼に対して、テプト軍は降伏を呼びかけた。

一刻のち、王姫フォエスティアは捕虜となることを受け入れ、ここにサリエ近郊の戦いは幕を閉じた。

戦況図9/9



戦況図1/9~9/9 GIFアニメーション



戦いの影響

サリエ近郊の戦いは、エクミス軍にとってはまさしく悲劇と呼べる記録的な敗戦である。まず第一に騎士たちの損害が大きかった。殲滅こそ免れながらも、追撃戦によって負った打撃は大きく、エクミス王国による湾奥統一事業は100年の遅れを見せることとなった。

また、エクミス王ヨルド2世の戦死、および王姫フォエスティアの消息不明はエクミス王国を揺るがす前代未聞の大事件であった。正統の王冠を持たないゆえ、ヨルド2世の甥ロルファはエクミス王に戴冠することはなかったが、5月のうちに彼は宰相となり、宮廷の実権を握った。

サラヴィアのテプト族は軍事的圧力の回避に成功した。一方で、この戦いによる巨大な勝利、および捕虜に得た第一王姫フォエスティアは王位継承権を保有しており、その存在はサラヴィアのパワーバランスを否応なく変化させた。これによってサラヴィアは、1018年から続く激しい内戦に巻き込まれることとなる(サラヴィア内戦)。そしてその内戦には、ここで捕虜となったフォエスティア姫が大きく関わっていた。

外部リンク

・“メイグリド大半島 ver.2 全域図+各種情報地図”.タクタク・テラ(2017年8月). 2018年5月6日閲覧。
・“https://ja.wikipedia.org/wiki/パロディ”.Wikipedia(2018年2月). 2018年5月6日閲覧。
・“絵ブログでは 良し悪しなどのコメント”.akasata(2017年10月). 2018年5月6日閲覧。
・“そして今回は戦術への評価 自分ならこうする作戦なども”.akasata(2017年10月). 2018年5月6日閲覧。
・“(単に嬉しいだけでなく) 改善に用いるために募集中です”.akasata(2017年10月). 2018年5月6日閲覧。

関連項目

エクミス王国
第二次サラヴィア統一戦争
フォエスティア(初代サラヴィア王)
サラヴィア融和


カテゴリ: 第二次サラヴィア統一戦争 | 1013年の戦争 | サリエ | それではまた~

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Material 86479 3 mini qhqh123(投稿日:2018/05/06 13:29, 履歴)
記事を投稿したあとに編集したためか(?)
新着ブログ記事 およびマイページのフォローしている人のブログにも
表示されなくなっていたらしいので同一内容で再投稿しました