時代を捲き戻せば戦
投稿者: xcbhdk
投稿日:2016/06/22 18:33
男の美学?少々大袈裟だが遊び心を纏った私の趣味・・男の道楽である。刀が好きだなどと口にすると一般には狂気の扱いを受けそうだが、古美術の中で私は特に刀剣を愛玩している。鐵の芸術とも言われる刀は「等質不可分三位一体」となって姿や鍛え肌、刃文の美で構成される日本特有の美術品である。日本史でクサナギノツルギや七星剣の話を学ばれた昔をご記憶の方もおいでだろう。
の道具であった刀剣だが、武士が一振りの刀に自らの生命を懸けた荘厳や、作刀の命を承けた鍛冶、刀匠達が鍛錬し研磨師が心血を注いで研いだ作品は当に「武士の魂」を表わしたものである。命を託した厳しいまでの美しさを私は男の美学と呼んで憚ることはないと思っている。刀の歴史は日本の歴史と言っても過言ではないだろう。千年の時を経て今尚光り輝やいているのだ。
研ぎ澄まされた・・という表現は刀から生まれた言葉だが、男子が鑑賞できる真の美術品だろう。(近頃は女性愛刀家も増えたことだが・・)現代では美術品としての刀剣、刀装具が見直され嘗ての『用の美』は『鑑賞の美』『美術品』として愛刀家の心を掴んでいる。刀剣ファンは世界中に広がっていて日本文化への関心は高い。中には日本人以上に深い造詣を持つ外国人もいる。
地鐵(じがね)や刃文の特徴、姿の相違など時代や家伝によって様々な手法があるのも刀剣である。皆さんが日頃無意識に使われる慣用句にも刀から生まれた言語が沢山ある。 鍔競り合いをする・・太刀打ち出来ない・・元の鞘に納まる・・しのぎを削る・・反りが合わない・・抜き差しならない・・切羽詰る・・目貫通り・・土壇場・・等々書き出せば切りがないが日頃誰もが使う言葉だろう。機会があれば、陶磁や書画を鑑賞する気楽さで刀をご覧頂きたいと思う。
刀剣の鑑賞は愛刀家にとって一服の清涼剤である。自身の萎えた気持ちを甦らせ、明日に立ち向かう心の活力源でもある。愛刀家は刀匠が鍛えた様々な景色に見惚れる。沸(正しくは金偏に花)や、匂い・・白隠禅師の描く水墨画にも似て雲煙を思わせるような地肌・・時には肥前刀に現れる米糠肌(こぬかはだ)など、語り尽くせない表情が鉄の表裏に現れるのである。刃文は波濤だったり、丁子文・・時には山の端の稜線だったり・・・仕上がりは当に一期一会で作者の意向どおりに仕上がらないのも刀なのである。
太閤秀吉の指し料に「一期一振り」と名付けられた名物がある。山城国・粟田口の「籐四郎・吉光」の作刀で儀礼用の謂わば太閤秀吉の余所行きだ。時代がどんなに変わろうと愛刀家の刀への探求心は今も変わらず誰もが生涯の一振りを求めたいのだが真の名刀に巡り合える機会は少ない。名刀・・優刀と言われるものは何処にでもあるというものではなく金子を出せば買えるというものでもない。刀に対する姿勢と人の縁に依ってしか手に出来ないものなのである。
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の道具であった刀剣だが、武士が一振りの刀に自らの生命を懸けた荘厳や、作刀の命を承けた鍛冶、刀匠達が鍛錬し研磨師が心血を注いで研いだ作品は当に「武士の魂」を表わしたものである。命を託した厳しいまでの美しさを私は男の美学と呼んで憚ることはないと思っている。刀の歴史は日本の歴史と言っても過言ではないだろう。千年の時を経て今尚光り輝やいているのだ。
研ぎ澄まされた・・という表現は刀から生まれた言葉だが、男子が鑑賞できる真の美術品だろう。(近頃は女性愛刀家も増えたことだが・・)現代では美術品としての刀剣、刀装具が見直され嘗ての『用の美』は『鑑賞の美』『美術品』として愛刀家の心を掴んでいる。刀剣ファンは世界中に広がっていて日本文化への関心は高い。中には日本人以上に深い造詣を持つ外国人もいる。
地鐵(じがね)や刃文の特徴、姿の相違など時代や家伝によって様々な手法があるのも刀剣である。皆さんが日頃無意識に使われる慣用句にも刀から生まれた言語が沢山ある。 鍔競り合いをする・・太刀打ち出来ない・・元の鞘に納まる・・しのぎを削る・・反りが合わない・・抜き差しならない・・切羽詰る・・目貫通り・・土壇場・・等々書き出せば切りがないが日頃誰もが使う言葉だろう。機会があれば、陶磁や書画を鑑賞する気楽さで刀をご覧頂きたいと思う。
刀剣の鑑賞は愛刀家にとって一服の清涼剤である。自身の萎えた気持ちを甦らせ、明日に立ち向かう心の活力源でもある。愛刀家は刀匠が鍛えた様々な景色に見惚れる。沸(正しくは金偏に花)や、匂い・・白隠禅師の描く水墨画にも似て雲煙を思わせるような地肌・・時には肥前刀に現れる米糠肌(こぬかはだ)など、語り尽くせない表情が鉄の表裏に現れるのである。刃文は波濤だったり、丁子文・・時には山の端の稜線だったり・・・仕上がりは当に一期一会で作者の意向どおりに仕上がらないのも刀なのである。
太閤秀吉の指し料に「一期一振り」と名付けられた名物がある。山城国・粟田口の「籐四郎・吉光」の作刀で儀礼用の謂わば太閤秀吉の余所行きだ。時代がどんなに変わろうと愛刀家の刀への探求心は今も変わらず誰もが生涯の一振りを求めたいのだが真の名刀に巡り合える機会は少ない。名刀・・優刀と言われるものは何処にでもあるというものではなく金子を出せば買えるというものでもない。刀に対する姿勢と人の縁に依ってしか手に出来ないものなのである。
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