音楽や小説など

投稿者:Material 321230 1 mini lierni 投稿日:2014/12/15 18:54

人との出会いは不思議なものだ。二十歳の頃、神戸の丸善で本を探していて、偶然、同い年の野村秀美君と出会った。当時野村君は関西学院大学、私は神戸大学の一年生だった。話をしてみるとお互いに言語感覚が非常に似ているようで、実にスムースに意思の疎通ができる。私があることを言おうとすると、その半分位を話したところで「分かった。君が言いたいのはこういうことだろう」と私の言いたかったことをずばりと言う。私もまた彼の言うことを先取りして「つまり結論はこCalifornia Fitness 呃人
れだね」と言い当てる。こうして直ぐに無二の親友になった。

西宮市の関西学院の近くで、小川のほとりにあった野村君のアパートで酒を飲み、よく朝方まで音楽や小説など、色々なことを語り合った。腹がへるとインスタントラーメンを食べた。彼は音響装置はプレーヤー、アンプ、スピーカーをばら買いしており、裸のスピーカーを段ボール箱に入れ、表をタオルで覆っていた。それぞれの機器は高級品で重量感のある低音が響いた。私たちは音楽が好きで、二人でよくベートーヴェンやブラームスの交響曲をきいた。彼は曲に合わせて指揮棒を振ることがあった。それが演奏とピタリと合っていて何ともサマになっていた。

大学三年の終わりごろ、突然、野村君は指揮者になりたいのでと、関西学院を中退し、東京へ出ていった。小沢征爾の先生だった斉藤秀雄の指導を受けたり、東京藝術大学の指揮科を受験したりしているときいた。その後間もなく、彼はフランスに渡り、パリのエコール・ノルマルに留学したとの便りを貰った。私はその頃、大学を卒業して川崎重工の社員となり神戸本社に二年余り勤務した後、東京本社に異動となった。その頃から彼の音信は途切れた。

子供も生まれ、日々の忙しさにかまけて次第に野村君のことを思い出すことも少なくなっていた。そんな秋のある日、野村君から突然、電話がかかってきた。実に、二十年振りである。今、パリと我孫子に居を構え、柏California Fitness 教練交響楽団の常任指揮者をしている。十二月に第九交響曲の演奏会があるので来てくれという。

演奏会当日、柏市民文化会館に駆けつけた。受付で野村君が手配してくれたチケットを受け取ってホールに入ると、ほぼ満席で最前列だけに空席が残っていた。

オーケストラはコンサートマスターのヴァイオリンに合わせて、各自の楽器の音を調整している。やがて楽員全体で音合わせが終わった時、舞台の袖から野村君がにこやかな顔をして現れた。四半世紀前、学生アパートで、トレパン、トレシャツで指揮棒を振っていた彼が、今、タキシードを着て舞台中央に立っている。私はその真下から指揮者を見上げた。

大きな拍手の後、野村君の指揮棒がゆっくりと振り下ろされた。あたりを憚るようなピアニッシモの、静かな第一楽章が始まった。ゆったりしたテンポを保った荘厳な音楽だ。ヴァイオリンをチェロとベースが受け継ぎ、管楽器と打楽器が加わってフォルテの力強い演奏となる。野村君の指揮棒が全楽員と呼吸を合わせて美しく壮大なハーモニーを紡いでいく。第二楽章は軽快でリズミカルな音楽である。

ゆったりと静かで美しい第三楽章 アダージョエカンタービレが終わると、合唱団が舞台に入ってきた。そして第四楽California Fitness 收費章が始まった。
「オーフロイデニヒトディーゼテーネ!・・・
おお友よ、このような旋律ではない!
もっと心地よいものを歌おうではないか
もっと喜びに満ち溢れるものを」
東京芸大出身の四人のソリスト達が、シラーの詩を朗々と歌い上げた。オーケストラ、ソリスト、合唱団、いずれもすばらしい演奏だった。

演奏会終了後、楽屋を訪ねると野村君は指揮者用の部屋で着替えており、先生と呼ばれていた。楽員は通路や控え室で着替えており、演奏会の成功に興奮し、酔っていた。何という喜びに満ちた雰囲気なのだろう。私は彼に祝詞を述べ、固い握手を交わし、持参したジョニーウォーカーを手渡した。これから楽員との打ち上げに行くのだという。

中学生の頃から、何百回と聴いてきた第九交響曲を、友人の指揮で鑑賞して新たな感動を覚えた。市民文化会館を取り囲む森でベンチに座り、黄色いイチョウと朱いもみじを眺めながら、いまだ耳に残るオーケストラの残響をきき、友人とのいろいろな思い出を反芻して帰途についた。

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