には薬指も含めて指

投稿者:User icon mini believegut 投稿日:2015/06/24 12:35

驚きましたよ。うちのエリザベスは高級キャットフードしか食べないはずなんですから」
 両腕に抱いた黒猫の背を撫でながら女が説明した。枯木のように痩《や》せた女の腕を折りそうなほどまるまると太ったペルシャ猫だ。「まさか鼠《ねずみ》を銜《くわ》えてくるなんて」
「それはさぞかし驚いたでしょうね」
 ラリー・ソールはもっともらしく相槌《あいづち》を打ちながら相棒のベン・ノッブスを横目でにらんだ。アフリカ系の大男で、横に贅肉《ぜいにく》が広がった太り具合はこの猫の比ではない。いつもチョコレートの甘ったるい匂いを漂わせて何か食べ物を口にしているのだが、なぜか今は全身が竦《すく》み上がってしまったかのようだ。足下に鼠の死骸が転がっているから、そのせいだろうか。「それで、ミセス」
「ミスですわ。ミス・ウッド」
 黒猫を撫でる皺《しわ》だらけの手には薬指SCOTT 咖啡機開箱も含めて指輪がずらりと光っている。五十過ぎに見えるが独身らしい。「とにかく早くその鼠と遺体をなんとかしてください」
「鼠は早急に。ですが遺体はどこに?」
「それを捜すのが警察の役目じゃありませんの?」
「……失礼ですが、殺人事件だと通報してきたのは、あなたですよな?」
「ええ、私ですよ。エリザベスが鼠を銜えてきたので」
「すみません」
 ラリーは頭痛を堪《こら》えて一息に訊いた。「鼠と殺人事件がどう繋《つな》がるんです?」
「鼠がいるからには遺体があるはずです」
「……つまり、あなたは遺体を見たわけじゃないんですな?」
「もちろんですわ。そんな怖いものを見るなんて、とんでもない」
 ミス・ウッドがきっぱりと答える。三段論法ど中醫皮膚科ころか二段論法の短絡さだ。ラリーは愛想笑いを浮かべたまま回れ右をして足早にドアから出た。ごく普通の木製ドアでオートロック式だが、|猫用の出入り口《キャット・フラップ》がついている。あの黒猫もここから出て、どこかで鼠の死骸を拾ってきただけだろう。
「あの鼠を処理しろ」
 廊下にいた十七分署の制服警官たちに冷静に指示しながらも、ラリーは内心で歯軋《はぎし》りをしていた。小柄で小太りで貧相な四十男だから迫力はないが、これでもニューヨーク市警本部殺人課で検挙率トップを誇るベテラン刑事なのに、こんな馬鹿げた通報で時間を無駄にするとは。「ベン、行くぞ」、
 急ぎ足で廊下を歩きながら振り返ると、驚いたことに巨体を震わせながらベンが必死に走ってくる。日頃は歩くのさえ億劫《おっくう》そうなのに珍しい。
「危うく十戒《じっかい》を破るところだった」
 ぜいぜいと息を吐きながら走り続けたベンは、エレベータのボタンを押しながら汗をぬぐっている。晩秋の十一月なのに暑苦しい男だ。「モーゼの十戒でもノックスの十戒でもなく、俺の十戒だが」
「十戒とは大袈裟《おおげさ》だな。そんなに鼠が苦手なのか?」
 ニューヨークには鼠が多い。もとを辿《たど》れば鼠も欧州から渡ってきた「移民」で、摩天楼の林立する地上には築百年を優に超える古い建物が残り、地下も上下水道管やスチーム管、さらに地下鉄のトンネルが蟻の巣のように広がり、八百万もの人間がひしめいていれば、ねぐらにも餌にも事欠かない。ゆえにラリーも鼠の死骸は見慣れているのだが、神経まで贅肉でできていそうなベンが震え上がるとは、意外を通り越して驚きだ。
 しかしベンは弛《たる》んだ顎《あご》と境目のない首を横に振っている。
「鼠は平気だな。俺のアパートにも数匹いるから。苦手なのは猫だ。特に黒猫には近寄るべからず」

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